バッハ(「小川」)の源流となった作曲家たちとその場所 2

 バッハを知る人の多いこの国、集団でバッハを歌う人たちの多いこの国、そして音楽学の世界の中心が著名なバッハ学者たちによって占められてきたこの国。という次第ですので、今まで小生、バッハには大学の音楽史通論のなかで一通り触れる程度であったのですが、それでもインヴェンション、シンフォニア平均律クラヴィール曲集、パルティータ、いくつかの組曲、そして最近ではヴィオラ・ダ・ガンバソナタ全3曲などもと、キーボードに関わる音楽にはかなり親しんできましたので、今回思い切って担当させていただいた次第です。本日は講座振り返りの2回目ですが、講座当日に話せなかったことなどもちょっと加えてみたいと思います。 (根岸一美)

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 2)ヴァイマル・アルンシュタット・ミュールハウゼン時代(1703~1708) 

⑤ディートリヒ・ブクステフーデ(c1637-1707)

 

 バッハは、1703年4月、ヴァイマル Weimar 地図6 に職を得て、領主ヴィルヘルム・エルンスト公の弟、ヨハン・エルンスト公の宮廷音楽家(ヴァイオリンおよびヴィオラ担当)となりましたが、この第1回目のヴァイマル滞在はとても短く、3か月後にはアルンシュタット Arnstadt 地図7の教会(現:バッハ教会)に移り、8月には同教会のオルガニストに任命されます。

 

 このアルンシュタット時代の有名なエピソードとしてよく語られるのが、1705年、北ドイツの リューベックbeck 地図8の聖マリーア教会に、最晩年のオルガニストディートリヒ・ブクステフーデ(Dietrich Buxtehude, c1637 - 1707)を訪問したという出来事です。

 

アルンシュタットからリューベックへの旅は、400キロ近くも離れているということで、しかも徒歩で出かけていったということですから、たいへんな出来事であったと思われますが、バッハはこの町において、ブクステフーデの演奏を聴き、さまざまな豊かな音楽体験を得ていきました。ブクステフーデはこの20歳の若者に注目し、この地にとどまって自分の後継者になってくれないか、とまで言い出したようですが、その申し出にはブクステフーデの30歳になる娘との結婚が条件づけられていたこともあって、到底受け入れられず、辞退したとのことです。バッハがもともとこの旅で許されていた期限はたった4週間でしたが、いろいろな音楽的催しなど、見聞を深めていったこともあってアルンシュタットに戻ったのは、出発から4か月も経った1706年2月のこととなりました。

 

それでは、ブクステフーデのニ短調の《トッカータとフーガ》を聴いていただき、その後に、おそらくブクステフーデの影響を受けて書かれたのではないかと思われる、同じ調の、有名な《トッカータとフーガ》ニ短調を聴いていただきましょう。

 

CD:ブクステフーデ《トッカータ ニ短調》BuxWV155[org:鈴木雅明 7’00]

 

CD:バッハ《トッカータとフーガ ニ短調》BWV565[org:カール・リヒター 9’50]

 

 バッハがブクステフーデから学んだのは、亡き畏友、礒山雅氏によれば、「ファンタジーを抑圧せず大胆に自分を解放してゆくという、表現への積極性」(『バッハ=魂のエヴェンゲリスト』講談社学術文庫1991、40頁)とのことでしたが、たしかに少年時代のバッハにとっておそらく最も強い音楽的影響力のあったパッヘルベル雄大にして安定感豊かな作品にくらべると、ブクステフーデの曲には形式を突き破るような奔放な表出が見られ、青年バッハに強いインパクトを与えたのではないかと想像されます。

 

 さて、バッハはこの後、つまり、1706年2月にアルンシュタットに戻り、翌1707年7月にミュールハウゼン Mühlhausen 地図9に移り、聖ブラージウス教会のオルガニストになります。10月には1歳年上のバーバラと結婚します。しかし、やがて、いろいろごたごたがあった末に(上記礒山氏著書参照)、翌年1708年7月、ヴァイマルに戻ったのでした。今度は、ごく短かった一回目の、領主の弟ヨハン・エルンスト公への奉公とはちがって、領主本家のヴィルヘルム・エルンスト公の「宮廷音楽家兼宮廷オルガニスト」となったのです。

 

3)ヴァイマル時代(1708~1717)

⑥アントーニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)

 

 最初にお話ししましたように、フォルケルがバッハの次男、カール・フィーリップ・エマーヌエルから聞かされたという、父バッハに対して影響を与えた人物の中に、なぜかヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi, 1678-1741)は含まれていなかったのですが、それを補うべく、フォルケルは、ほかの音楽家たちからの影響にも触れており、とりわけヴィヴァルディの協奏曲からの影響を強調しています。

 

 それはこんな次第でした。つまり、ヴァイマルの領主の甥ヨハン・エルンスト公子(ややこしいのですが、さきほどの一回目のときの主君ヨハン・エルンストの、同名の息子です)がオランダ留学中に楽譜をたくさん買い集めまして、その中にヴィヴァルディの協奏曲やその作風にならった一連のソロ協奏曲が含まれており、それらをバッハは鍵盤音楽用に編曲したことが大きな展開をもたらしたのでした。バッハはこのような仕事をしながら、ヴィヴァルディの音楽のスタイルを自分の作品の中に生かしていったのです。

 

それではヴィヴァルディの曲をひとつ聴いてみましょう。

 

CD:ヴィヴァルディ《調和の霊感 L’Estro Armonico》作品3

第8番〈2つのヴァイオリンのための協奏曲〉RV522 より 第1楽章

[orch:イタリア合奏団  3’30]

 

 先にも触れました高名なバッハ学者クリストフ・ヴォルフは次のように述べています。「バッハに対しておそらく最も持続的かつ顕著な影響をもたらしたのはヴィヴァルディであった。それは1712~13年あたりからのことで、その時期に、イタリア音楽の数多くのレパートリーがヴァイマルの宮廷管弦楽団において用いられるようになってきたのである。バッハがヴィヴァルディから引き出したのは、その明瞭な旋律の輪郭、高音部と低音部のシャープなアウトライン、動感に富んだリズムの明快な簡潔性、統一のとれたモティーフの扱い、そして明快に分節された転調の図式であった。1713年から14年にかけてのヴィヴァルディとの対決は、バッハ自身の個人様式に向けての、最も強固な比類なき展開力を呼び起こしたといえるだろう。」

 

Indeed, it was Vivaldi who exercised what was probably the most lasting and distinctive influence on Bach from about 1712-13, when a wide range of the Italian repertory became available to the Weimar court orchestra. Bach drew from Vivaldi his clear melodic contours, the sharp outlines of his outer parts, his motoric and rhythmic conciseness, his unified motivic treatment and his clearly articulated modulation schemes. His confrontation with Vivaldi’s music in 1713-14 provoked what was certainly the strongest single development towards his own personal style. )[The New Grove Dictionary of Music and Musicians. Second Edition. Band 2, p.331] 

 

さて、それでは、以上のクリストフ・ヴォルフの指摘しているようなことを少し意識しながら、実際にバッハがどのような編曲をしているか、聴いてみましょう。

 

CD:バッハ  同曲のオルガン独奏曲への編曲 BWV593より 第1楽章

[org:トン・コープマン 3’50]

 

[お目通しいただき、ありがとうございました。本稿、あと1回です。]